人生激変!? 山梨に帰らなきゃ!
介護って何だろう?

<やまなし介護劇場>
「母、危篤」の連絡を受け、東京から故郷山梨へ飛んで帰って早10年。50代独身の著者が愛する母を介護しながら生活する日々を明るくリアルに綴ります。

名言は、ありふれた暮らしから生まれる

 山よそおう季節ですね。冬になり山ねむる前に、ひととき山肌がお化粧をして華やぐ、この季節が好きです。

 改めまして、先月GWGコラムデビューをしたばかりの入月一服です。季節のある町に生まれ、全方位から吹きすさぶ強風にも倒されず、かろうじて楽しく生きているガチフィフです(笑)。これから暮らしの中の介護について、あーだこーだ書かせていただきます。

 さて、前回のプロローグで反響が大きかった信友監督のパワーワード、

「介護とは、親が命懸けでおこなう最後の子育て」

 実はこの言葉、監督がお世話になったエッセンシャルワーカーさんが言われたことだそうです。名言とは、ありふれた普通の暮らしから生まれるものなのでしょうね。私自身も日々の暮らしの中で出会った普通の人々からいただいた数々の名言を心の引き出しにストックしています。たとえば、

「子育てはいつか来た道、介護はいつか行く道」

 「なるほど〜」と、心に響きました。これは、町のスポーツ施設で知り合ったおばさんから、更衣室で聞いた言葉です(笑)。

 言葉は時としてナイフのように人を傷つけますが、上手に使えば、時として人を救うこともありますよね。今後も素敵な言葉に出会ったり、思い出したら、ここで共有したいと思います。

「くれ騙し女」と母にののしられ……

 さて、そろそろ本題に(笑)。

 ふたたび話は遡りますが、脳出血で倒れて手術をした後の母が、まるで知らないオジサンのごとく高いびきで眠る姿に悶絶してから1週間後、母は集中治療室から一般病棟に移りました。

 そこでの母は、知らないオジサンから、私の知らない母へと変貌していました。いつだって自分のことは後回しで、子どもたちを優先してくれていた母が、ナント!! 超わがまま娘のようになってしまったのです。

やまなし介護劇場 第一幕 イラスト1 入月朏
強烈なインパクトをもたらした母のビフォー&アフター イラスト©️入月朏

 術後しばらくは水分摂取すらコントロール下に置かれ、自分で飲むのはNG。母は水を欲しがって駄々をこね、私たちを困らせました。見ていて可哀そうでしたが、喉の気管にうっかり入ると命取りになりかねない……というリスク回避のため、致し方ない処置でした。

 しかし、母は諦めませんでした(笑)。

「飲みたい、飲みたい、飲みたいYOー!!」

まぁ~ 叫ぶ、叫ぶ……。「あんたはラッパーか!?」とツッコミたくなるぐらいによく叫ぶのです(笑)。あまりの猛獣っぷりに、看護師さんに相談。水を浸したコットンで唇を濡らしてあげると落ち着く……を繰り返し、家族もヘトヘトになりそうでした。

 しばらくすると、水分は少しだけ摂取可能になりましたが、固形物はまだNG。と、今度は……

「甘いものが食べたい、食べたい、食べたいYOー!!」

と、欲望が具体的になっていきました(笑)。

 ある日、妹が「食べられるようになったら、〇〇堂のロールケーキを差し入れするからね」と、母を元気づけようと言った一言があだになり……いつまで経ってもロールケーキを持ってこない妹を「あの女! くれ騙しして、ひどい女だ!」と、お見舞いに来る人たちに告げ口をしまくる始末……。言葉の選び方もそれまでの母とは違ってきつく、これには妹も相当ショックを受けていました。

やまなし介護劇場 第一幕 イラスト2 入月朏
飢餓状態の母の頭の中はロールケーキ一色…… イラスト©️入月朏

 落ち込む妹に、「いやぁ~、これは伝説になるね。ヨッ、伝説のくれ騙し女!」とからかうと、泣きたいようなトホホ顔で笑っていました。でも、妹をからかいながらも、「母はもう、以前の母ではなくなったんだな……」と、ほんの少し寂しくなったのを覚えています。

 母の脳出血は思ったよりも広範囲で、母は左半身の運動中枢を損傷し、開頭手術の後遺症である「高次脳機能障害」を起こしていました。この障害は、まるで子供のように感情のコントロールが制御できなくなることがあり、直近の記憶を頭に定着させることが難しくなる障害です。要するに、軽い認知症のような行動が多く見られるようになります。それが障害か認知症かの見分け方はとても難しいのですが、認知症でないことは身近にいる家族なら分かる……そんな悩ましい障害が母の体をコントロールしていました。

人生を悲劇と見るか、喜劇と見るか

 さて、母が一般病棟からリハビリ病棟へ移るまでの1カ月間、私の活動拠点はまだ都内でした。

 その頃の私は、自分が座長を務める劇団の舞台公演のプロデュースを抱えており、稽古に顔出すために東京と山梨を往復し、母の様子も見て、その合間にはハローワークにも通っていました。前回のコラムにも書きましたが、当時、前職の契約が終了したばかりだったので、きちんと手続きをすれば失業手当をゲットできる状況だったからです。

 稽古場では座長として演者たちをあたたかく見守り、ハローワークでは本当に東京を出て山梨でこれから何年も暮らすのかわからないまま仕事を探し、病院ではしっかり者の長女を演じる……。はからずも、そんな日々が始まってしまいました。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

このチャップリンの名言のごとき、人生遊泳の始まり。演劇にたとえれば、我が家の介護劇場の第一幕が開いたのでした。

そんな我が家のジタバタ悲喜劇LIFE。次回もお楽しみに!

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