【やまなし介護劇場】
「母、危篤」の連絡を受け、東京から故郷山梨へ飛んで帰って早10年。50代独身の著者が愛する母を介護しながら生活する日々を明るくリアルに綴ります。
いよいよ母、退院で自宅介護スタート
彼岸入りして春分も迎え、そろそろ桜の季節ですね。
「今年も桜が見られそうだね」
母との何気ない会話には、桜の季節に彼岸へ旅立った陽気な父への想いと共に、あと何回、母と桜をめでることができるだろうか……なんてことも含まれています。来年も同じ会話ができるかなんて、誰も分かりませんからね。 さて、いよいよ母が退院する日がやってきました。我が家の場合、それは自宅での介護の始まりでした。
母の家族、つまり私ら4人の子どもたちは「多様性の時代」という昨今の流行り言葉を錦の御旗にして、のびのびと全員独身。世間的には少々いびつで変わった家族かもしれませんが、なんやかんや仲もよく、母も子どもたちに全幅の信頼を寄せているので、わが家は自宅介護一択でした。
見守る側から支える側へ
入院期間中はなんやかんや病院にお任せでしたから、家族は「見守る側」。それが急に「支える側」に様変わりするわけですから、当然戸惑うし、感情もぐるんぐるん沸き立ちます。
その上、現代人はとても忙しいですよね。夫婦ともども仕事していたり、親とは別居が当たり前の世の中ですし、兄弟姉妹がいない方も多くいます。正直、自宅介護は人一人の人生を潰しかねません。それが現代社会のリアルです。
入院もつらかったけど、退院もツライ。
だから、ここから先の話は、わが身に置きかえてお読みいただかなくて結構です。皆それぞれ事情があり、介護してあげたくても出来ない方々も多くいらっしゃると思います。ですから、これはあくまでも「とある変わった家族のちょっと逞しい介護の話」とでも思っていただけたら幸いです。
さまざまな家族模様を垣間見て
さて、母の入院中は多くの一期一会もありました。退院後はほとんどの方とお会いすることはありませんが「袖振り合うも他生の縁」という言葉の通り、ガッツリ寝食ともにした入院仲間とは前世でも因縁があったのかも知れませんよね。
母と食卓をともにしていた二人のご婦人(入院患者さん)は、明るく穏やかな人たちでした。Aさんは冗談を言っては豪快に笑う方で、母と同じく食堂を営んでいた女将さん。Bさんはいつも銀河鉄道999のメーテルがプリントされたTシャツを着ていて、麻痺があってうまく話せませんでしたが、笑い顔がとても可愛らしい方でした。二人とも頻繁に旦那さんの面会があり、Bさん(メーテルさん)の旦那さんが排水管で作ってくれた母の車椅子の操作レバーは、退院して12年経った今でも活躍しています。
若い女性もいました。ほとんど言葉を話すことができず、全介助が必要でお気の毒でしたが、ご家族が来るとニコニコと嬉しそうにしていました。表情はいつも天真爛漫。倒れる前はきっととても魅力的な女性だったと思います。
いろいろと世話を焼いてくれた独身のおじいさんもいました。穏やかな方でしたが、お見舞いに来られる方を見たことがなく、もう独居暮らしは無理とのことで小さなグループホームへ入りました。おじいさんと同じく独り身の私にとっては身につまされるケースでした。
今年も母と桜が見られる喜び
母は、病院スタッフから「いつも家族が会いに来てくれて幸せだね」と言われることが、少しだけ自慢だったようです。実際は無職の暇人家族がいただけなのですが(笑)。
母は左麻痺だったので言語障害はあまりなく、コミュニケーションを取ることができました。でも右半身に麻痺が残る人は話す機能が奪われます。それでも発声ができれば、声色で意思表示をしてコミュニケーションを取ることができますが、ベッドに寝たまま、視線もほどんど合わせられず、胃ろうで生きながらえているだけ……という人も多かったです。
ある時、ベッドに寝たままの患者の息子さんの前で、私と母が親子喧嘩をしているところを見られたことがありました。すると彼は寂しそうな表情でこう言ったのです。
「おばちゃんはいいよ、話せるんだからさ。うちの母さんはベッドにつながれたまま話も出来ないから羨ましいよ」
この息子さんにとっては親子喧嘩すら夢のまた夢。奇跡が起きない限り、親子のコミュニケーションは取れないけれども、見舞いに来ずにはいられない……。病いとは、人一人の人生の色彩を変えてしまうことを様々と思い知らされた母の入院生活でした。
あれから12年———。
今日も母は私に話しかけてきます。12年経っても、父を亡くしても、母は元気に毎日甘えてきます(笑)。一期一会の人達は今頃どうしているのでしょうか。多くの人達は彼岸の向こうへと旅立っているかもしれません。水面に漂うあぶくのように消え去るからこそ、命の尊さを感じます。泣き笑いしながらも、私は今年も母と桜が見ることができるのだから。