アラフィフの日本人シングルマザー@アメリカで生きる

はじめまして、安藤優花子です

 みなさん、はじめまして。

今回から「Go Women Go」に連載させて頂くことになった安藤優花子と申します。
年子二人の子供を持つアラフィフのシングルマザーをアメリカでやっています。

 私のモットーは、「愛をもって、強く生きる」こと。

愛へのこだわりや強い生き方についての考え方は人それぞれ違うと思いますが、「心の強さを持った人たち」の優しさは質が違う。これは真実だと私は思います。

苦しかった離婚までの数年間、悔しい思いや孤独もたくさん経験したけれども、離婚から数年経った最近、ようやく辿り着いたこの気づきがあるからこその私のモットー(こだわり)です。

「こだわり(=これだけは譲れない)」を持っている人たちは強いよなぁ、といつも感じます。こだわりがある事でその人の存在価値もなんだか大きくなって、自ずと自信もついてくる。だから、こだわりを持つこと、「ブレない自分」は素晴らしい武器です! 逆を言えば、前に進むためにはブレてはいけないんです!

別居からシングルマザーになり、正式な離婚に至るまでの間、私はこの「ブレない自分の状態」にすることがとても難しく、迷う分だけ振り幅も大きくなり、疲れて、苦しくて、自信もなく、果てしない気持ちになることが多くありました。

 ここでは私が離婚に至るまでの迷いやアメリカでシングルマザーとして生きるお話と併せて、その間私の心の中で起こった気づきについても共有させていただけたらと思います。

 ここでお話しする内容が少しでも皆さんの日常に寄り添うことが出来たら嬉しいです。

私、「アメリカ人になりたいんです!」

 さて、そんな私は、日本ではちょっとはみ出たタイプでした。

幼い頃から自己主張が強く、振り返ると、「優花ちゃんは思ったことを思った通りにするよね」と周囲から言われ続けていました。

 高校三年の進学相談の際には、担任の先生に「私、英語がペラペラになりたいの!」と漠然とした目標を堂々と掲げ、「私、アメリカ人になりたい!」と発言する(言霊パワーか)、かなり変わった学生でした。

 その後、短大へ進学するも、ほとんど勉強もせずにアルバイトを掛け持ちして資金を稼ぎ、アメリカへ短期留学を果たしました。その二年間はとても刺激的で、英語を通しての異文化経験と英語でのコミュニケーションの楽しさ、と同時に語学への挫折感、数々の悔し泣き、アメリカ人の恐るべし自己主張力などを学びました。

 そして、この経験は私を「優花ちゃんの夢」に確実に近づけることになりました。

 アメリカ生活を経験をした後、私は日本で社会人として働き始めましたが、時々アメリカでの生活を思い返しては、日本でははみ出た感のある自分が、アメリカでは上手く「呼吸」が出来ていたように感じました。

 当時の私は「アメリカに帰りたい~ 」が口癖でした。そんな折、ある友人に、
「優花子にとってアメリカは帰りたい場所なんだね」と言われて、私にとってのアメリカの位置づけが分かったような気がしたのです。

 「そうだ、私はアメリカ人になりたかったんだ! 」

だっだたら、まずアメリカとアメリカ人についてとことん知ろう。

そう思って、5年ほど続けた仕事を辞めて、アメリカへ渡米しました。

アメリカでビビ婚! 出会って半年で結婚しました

 「ただ主張をするだけではない自立した自分を作ろう、学ぼう、自分の人生を自分で切り開こう!」、と志高くアメリカの地に上陸したのが、今から20年以上前のことです。

 そして、その直後ビビビッ!と感じる元夫と出会いました。出会いは友だちの誕生日パーティーでしたが、それは「ビビ婚」と言われる典型で、自分たちのドラマティックな出会いにのぼせ上り、相思相愛である事実に大感激し、これからも変わらない幸せを信じて、出会って半年で結婚したのです。渡米した時の志はあっさり横に置いて。

 1年後には妊娠、出産、その翌年にもまた出産。誰からも祝福され、とにかく幸せでした。

ただ、今だからここで思うのは、「そこには願う幸せだけでなく、愛もあったのだろうか……」ってこと。もしかしたら、私たち夫婦は、この部分について考えることを怠ったまま結婚してしまったのかもなぁ、と思ったりもします。なんせビビ婚ですから(笑)。

それでも17年も続いた事は奇跡的で、自分としては上出来だとは思っています。

夫婦のすれ違いから、幸せの帳尻合わせをするように

 その後、結婚から12年目で夫婦のすれ違いが始まり、そこから自分の心の葛藤、幸せでありたいゆえの帳尻合わせが始まりました。

 さらにそこから5年後の離婚まで、様々な場面で孤独と向き合う作業をして、夫婦間の心のコネクションについて考え続け、自分の人生プランについて新たな方向転換と錯誤をしてきました。一番厄介で難しかったのは「ブレない自分探し」の日々でした。

 その間にも家族の誕生日、結婚記念日、感謝祭、クリスマス……。これらの年中行事に追われて、心の霧は晴れないまま時間は流れていく。

みんなこれに気づいてる? それとも私だけ? 私だけが大変なの? どうして?

自問自答の禅問答を繰り返し、結局「私の大変さなんて誰にも分らないよね」となってしまうイジケた自分。赤の他人が目の前で泣いているのを見てもらい泣きするほど、いつでも泣いてしまう状態でした。

私は泣きながら、自分はなんて不幸なんだろうと思い、その状況をすぐに変えられる術が全くない状態でどこから手を付ければいいのかも分からず、果てしない不安を感じていました。

「自分の欲しいもの=幸せ」だと分かっていても、それにこだわる強さがない。だから何も前に進まない、進めようとする覚悟や強さもない。これからの生活はどうなるのか、いろんなことをきちんと分かっていないゆえの漠然とした大きな不安を抱えながら、ただひとつだけ目の前には明確な真実がありました。

「夫には対してもう愛がない」。だから今後、彼と一緒にいても私の幸せが想像できない。

でも母親としては、子供たちを健全な環境で精一杯守り、彼らの人生をサポートしたい。

子供たちの幸せと私の幸せは常に比例するの? 
愛とは? 幸せとは? 人は何に幸せを求めるの?
愛のない人生って存在するの?

私は悩み、考え続けました。

そして、私はシングルマザーになる決心をしました

 元夫はアルコール依存症です。

それも離婚の決断を複雑にした要因のひとつでした。

数年間、時間をかけて悩み、散々口論し、クタクタになった4年前のある日。
中学生になった子供たちが「ママ、もうやめよう。もっとヘルシーな場所で暮らしたい」と言ったのです。

この言葉を聞いて、離婚することと真正面から向き合う覚悟を決めようと思いました。

その後の具体的な生活やサポート、子供たちの心がこの変化に着いてこれるのかという懸念、「シングルマザーになるという事実」とまだ十分に向き合いきれていない自分を感じながらも、決めたことに対して責任を取ろう。その時、考えられるのはそれだけでした。

何か新しいものを生む時の苦しみが、どんなに大変なのかはまだ分かっていなかったけれど、大切な事をひとつずつやっていこう……と自分に言い聞かせながら、新しい経験と学びへの長旅が始まりました。

<次回に続く>

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