
<やまなし介護劇場>
「母、危篤」の連絡を受け、東京から故郷山梨へ飛んで帰って早10年。50代独身の著者が愛する母を介護しながら生活する日々を明るくリアルに綴ります。
母は童話を書いていた
最近、母の様子が以前よりも混沌としてくるようになりました。
夜中に覚醒して、「起こして!」「寝かせて!」と時間を空けずに要求したり、デイサービスの日ではないのに「支度して!」「装具をはかせて!」と騒ぎ出すことも。これには正直ホトホト参ってしまい、母にキツイ言い方をしたり、怒ってしまうこともしばしばあります。私はもうすぐアラ還だというのに反省することしきり。でも、親子だからか不思議と何事もなかったように、また日常に戻れるんですよね。もしも義母だったらこうスムーズに行くのでしょうか。
本当に介護は耐久レースです。でも、私は楽しいことや気分転換できることを見つけるのが得意。そこは母の性質を受け継いだように思います。
そんな母が元気だった頃の気分転換は「童話の創作」。山梨の県域新聞に読者の作品を応募できる欄があり、そこに何度も投稿していた母。選ばれるとイラスト付きで新聞の一面に掲載されるのですが、なんと10篇以上も掲載された記録があり、なかなかの才能の持ち主だったようです。
農家と創作と母
母は若き頃、農家の長男の嫁として昔ながらの窮屈な家制度の中で生きてきました。義父母や義姉弟の顔色を伺いながら生きていたところもあったでしょう。朝から晩まで農家の嫁として働いて、四人の子どもの子育てもする。そんな目が回るような生活の中で、いつ童話の創作なんて出来たのでしょうか……。母は童話が新聞に掲載されても自慢することもなく変わらず忙しく過ごしていました。
私がだいぶ大人になってから、母が自分の童話が掲載された新聞を大切に保存していることに気づき、それを読ませてもらう機会がありました。母の作品の中には親子の匂いがあり、心象風景に触れるような甘酸っぱい感慨深さがありました。フィクションを織り交ぜた日記のような母の童話の主人公は私であったり、他の家族であったり。どの物語も実在するエピソードに母の想像力を加味した味わい深く優しい物語ばかりでした。
母が書いて残してくれたから、今はなき田園風景の中のかかしとか十五夜祭りでの出来事など、私は自分が幼き頃の心象風景にアクセスすることが出来る——親子の軌跡を童話に刻み込んでくれた母のおかげです。今更ながら胸をはって母の自慢して差し上げようと思います。
昔の新聞の懐の深さにビックリ!!
母の童話が新聞に掲載されただけでもビックリなのに、その話に心動かされた読者の感想文が掲載されたこともありました。しかも、母から感想文へのお礼状までも掲載されるという、まるで文豪の往復書簡のような扱いの記事も。県域新聞だからかもしれませんが、昔の新聞は懐が深かったんですね。
その往復書簡が素晴らしいのでココに掲載したかったのですが、他社の記事転載はできないので概要を書くと、読者の方が母の童話のワンシーンに涙が溢れ、思わず感想を送ったことに対して母はこんな返事を書きました。
「畑におりました折、郵便局の方からお便りをいただき、うれしく思いました。自分は三十二歳の三児の母親で農業に携わっていますけれど、子どもたちに何かを残してあげたいと暇をみつけては童話を書いています」
その後、その読者さんは「未知の方ですので、これからもお便りの交際を重ねますことは先方にとりましても重荷になることと存じ、新聞の読者欄を通じてお礼を申し上げておきます」と投稿し、その投稿に対しての母の感謝文を同時掲載するという粋な計らいの一面でした。現代のSNSで見ず知らずの人間同士が剝き出しで空しい議論にうつつを抜かしているのと比べると……なんと品のあるやり取りでしょう。
そんな母の若き時代を書き留めておこうとこの原稿を書き、珍しく母にそれを読み聞かせたところ、「アンタ、作文が上手くなったね」と褒めてくれました。そのときの母の表情は時折見せる母親らしいもので、とてもとても……嬉しかったです。

介護メモ「耳かき」
母は脳出血の後遺症で左半身に麻痺が強く残っています。そんな母にとって「耳かき」は耳かき棒や綿棒を持ち替えて両手を使うので難しい作業。なので時々私が母の耳かきをするのですが、母はそれをまぁ怖がる! 耳のふちに綿棒を当てるだけで「もういい!もうやめて!」と騒ぎ出す始末。そこでベットから起こして座った状態の母に綿棒を一本渡して、母自身に右手で右耳を掃除をしてもらい、その隙に私が別の綿棒を使って左耳の掃除をすると……悲鳴が激減しました。こうするようになってから、左耳も納得がいく手入れが出来るようになりました。体が思い通りに動かないと恐怖に敏感になるそうなので、なるべく集中を分散させることがポイントです。
