周囲の人に事情を説明していなかった
太郎くんが始めて我が家に泊まった翌日の日曜日(これまでのお話はこちら)。私と夫はクリスチャンなので、毎週日曜日の午前中は教会の礼拝に参加します。そこへ、初めて太郎くんを連れて行きました。
私「太郎くん、着いたよ。」
太郎「怖い。嫌だ。行きたくない……。」
私「怖いことは何もないよ。教会には大人も子どもも、お姉さんやお兄さんもいて、みんな優しいよ。」
太郎「……。」
すると、太郎くんと同じ年頃の男の子をもつ、私と同年代の教会員の加藤さんに声をかけられました。
加藤「まあ、どこの子?」
私「あ、えーと、その……、我が家で預かることになった太郎くんです。」
加藤「あら、太郎くん、私、加藤と言います。はじめまして、よろしくね。私には男の子が2人いて、そのうちの1人は太郎くんと同じ年くらいよ。」
太郎「……。」
私は加藤さんに「どこの子?」と聞かれたとき、「何と答えればいいのだろう?」と、少し戸惑ってしまいました。加藤さんに限らず、私たち夫婦は周囲の方々に特別養子縁組をしようとしていることを話していなかったからです。
これから先、たくさんの人から同じ質問を受けるだろうなと思い、礼拝後、牧師先生のところへ相談にいきました。教会員の方々に「我が家の事情」を説明する機会をいただきたい旨を伝えると、すんなりと許可を下さり、次週の礼拝の終わりにその機会をいただくことができました。
正直、私は加藤さんに聞かれるまで、「我が家の事情を周りの方々に説明することが必要」だなんて、頭の片隅にもありませんでした。里親研修でも、そのことは話題に挙がらなかったし、「子どもを我が家に迎えること」ばかりを考えていたからです。
でも、よくよく考えてみれば、これは重要なこと。私が加藤さんの立場だったら、身近な方の家族構成が、何の前触れもなく突然変っていたら驚くでしょうし、さらに小さい子どもが関与していたら、「これは、どういうことかしら?」と気にもなると思います。
最初から、周囲の方々に事情を説明すれば、皆さんが状況が理解でき、その後のお付き合いがスムーズに行きやすくなるかもしれません。このことに気づいた私は、叔父と叔母たち宛てにも手紙を書き、養子縁組をすることを説明しました。すると1週間後、ひとりの叔母から、こんな内容の返信が届きました。
「あなたたち2人が、私の長年の夢であったことをしようと決断し、既に行動をしてくれて、自分のことのようにとても嬉しいです。本当にありがとう! 私はあなたたちを応援しています」
私はこれを読み、目頭が熱くなりました。
このように私の場合、ある状況に遭遇して初めて、「あっ、そうだ。これもしなきゃ、あれもしなきゃ」と気づくということの繰り返しでした。どれも、それまでには考えもしなかったことばかりでした。
正解はひとつではないはず
太郎くんの初めてのお泊まり2日目の話に戻しましょう。教会から帰宅後は、一緒にテレビを観たり、おもちゃで遊んだりして過ごし、夕食とお風呂を済ませた後、太郎くんを児童養護施設へ送って行きました。
職員に初めてのお泊りの報告をして、その先に予定されていた残り数回のお泊りの日時を再確認し、児童養護施設をあとにしました。
帰宅後、私は前夜、児童養護施設の職員に言われた「お母さんになること」について、夫と語り合いました。夫は「お父さん」になり、夫婦で「親」になり、「子どもの全てに向き合う」について……。
その中で、問題発生時の対処法についても話し合いました。太郎くんが帰りたいと泣いた際に、「私たちが取った策より、もっと他に良い方法があったのではないか?」と。もちろん、子育てに正解などないことは、私も夫も十分に理解していましたが、慌ててしまったことは事実でした。
何事においてもそうですが、「この方法だけが正しい」ということは、ないはずです。私たちは、その夜、「それまで見えなかったことが経験を通して見えるようになったり、知恵や知識が備わっていく中で、親として、人間として成長すればいいのではないか」という結論に至りました。アメリカには、「子どもは取扱説明書付きでは生まれてこない」という表現があり、そのことを出して夫と笑いました。このことは、何事も完璧にやろうとする私をだいぶリラックスさせてくれました。
「お母さんになる」ということ
太郎くんのお泊まりの初日の夜に、職員から言われた「お母さんになる」という言葉。それが、ずっと私の頭の中で駆け巡っていました。
自分のことを「お母さん」と表現されたのも、生まれて初めてでした。「お母さんになる」ということは、一体全体どういうことなのか? 私の頭の中は「お母さん」の文字で溢れ返っていました。
私にとって一番身近な「お母さん」は、まぎれもなく私の母です。私は生物学上の両親の下で育ちました。
母について、忘れられない思い出があります。母はフルタイムで働いていたため、子どもの頃の私にとって、「母は日中、仕事で家に居ない人」でした。祖父母と同居していたので、私の保育園のお送り迎えは祖母。小学生になってからは、帰宅すると家で迎えてくれるのは祖父母でした。その上、父の方が母より帰宅時間が早かったことも覚えています。
その母が、看護専門学校に入学。入学準備のため、それまでの仕事から離れ、私が小学3年生の3学期だけは母は専業主婦として家にいました。母が家にいた間に、私が発熱を伴って体調を崩し、数日間、寝込んだことがありました。その際、母はずっと家にいて、私にとても優しくしてくれました。体調不良は大人でも心細くなるものですが、私は母が家にいることだけで嬉しくて、母が特に何もしなくても、それまでに感じたことのないくらい、心がとても満たされたことを今でも鮮明に記憶しています。
母は料理もとても上手です。母が仕事の日は、祖母が夕食を作っていましたが、母が休みの日は、母が子どもたちが好むものをよく作ってくれました。食卓に好物が並んでいると本当に嬉しくて、私は夢中で食べたものです。
そんな優しい母、そばにいてくれるだけで心から安心した母のように、私も太郎くんが安心するお母さんになれるのだろうか……。頭の中に溢れ返る「お母さん」の文字は、そのあともずっと、私の中でぐるぐる回り続けていました。