<やまなし介護劇場>
「母、危篤」の連絡を受け、東京から故郷山梨へ飛んで帰って早10年。50代独身の著者が愛する母を介護しながら生活する日々を明るくリアルに綴ります。
幼少期の入月家
2025(令和七)年、巳年が始まりました。巳年といえば、蛇。この介護コラムも少し脱皮をしてみようかなぁと思い、今回から私たち親子の日常のエピソードに「介護メモ」を添えることにしました。
さて、いきなりですが、大人になって分かったことは、入月家は「変わり者ファミリー」だということ。サラリーマン家庭ではなかったので、一般的な家庭とはそもそも違ったのですが、昭和後期まで我が家は農林業を営んでいました。
両親は山梨県の緑化事業の下請けをしながら、ヒノキの苗木を育てていました。そして、その合間に新規事業にもトライしていました。「農地で出来ることは、すべて商売に繋げる」という気迫ある昭和の空気感で、私は弟妹とともにのびのび育ててもらいました。今思えば、まさに山師のごとき生き様です。母は農業が好きだったので、のんびり屋の父のお尻を叩きながらどの事業にも精を出していました。
ゴージャスで立派だった我が家のしいたけ
そんな我が家の新規事業のひとつに「しいたけ栽培」がありました。当然、幼い子どもたちも即戦力として、なかば強制的に手伝いをさせられました。「きのこぼた」と呼んでいた1メートルほどに切り揃えられた「しいたけのほだ木(シイ類)」に電気ドリルで穴をあけて菌をトンカチで植えこむ作業もしましたが、ドリルの穴あけ作業はリズミカルで遊び感覚もあり、なかなか楽しかったです。しかし寒くなる頃にきのこぼたを水槽に出し入れしてビニールハウスに収納するのは、辛い作業でした。ただ、その辛い作業こそが菌からしいたけを芽吹かせて成長促進させるので、しいたけ栽培の肝だと学びました。
今振り返ると、空調管理設備もない時代だったのに、うちのしいたけは肉厚で立派な出来栄えでした(現在のネットショッピングサイトなら、1キログラム箱で一万円のクオリティですが、当時は千円ほどで販売していたと思います)。箱詰めやパック詰めをするときも、ヒノキの小枝を敷いて緑の森からしいたけが溢れ出すようなゴージャズな仕立てにしていました。その頃の本業がヒノキの苗木育成だったので、無駄のないヒノキの使い道だったのでしょうが、今やそんなパック詰めは一般的なスーパーでは見られません。市場などに安価で出荷していたので、購入者にとっても重宝がられたようで、しいたけ栽培を辞めてからも取引先からよく再開を望まれたものでした。
でも当時、我が家の食卓は毎日が「しいたけ祭り」。市場に出せない形が悪いしいたけが毎日のように……。これにはさすがに辟易しました。さらに、この頃の私はしいたけの独特の風味がキツく感じたのか、しいたけが苦手でした。大人になった今は、出来ることならもう一度あの食卓に戻りたいと思うこともしばしば。贅沢だったなあと懐かしく思い出されます。
母と記憶の旅に
今は記憶があやしいことも増えた母にしいたけ栽培の話を聞くと、ポツポツと記憶の扉を開いてくれます。
しいたけの菌が「森125号」という品種だったこと(ネット検索しても見つからないので消滅したか、母の記憶違いの可能性もあり)、町の森林組合から栽培指導を受けたこと、山梨北部の炭焼き職人さんに「きのこぼた」を買い付けに行ったこと等を語る母。まさに記憶の点が、線へと繋がっていくような感覚になり、それを聞いている私の中にも当時の情景が浮かんでくるのです。
きのこぼたを買い付けに行くと、いつも職人さん宅で赤飯を炊いて振舞っていただきましたが、そのホクホク感たるや、忘れられない美味しい記憶です。炭火で炊いたのかは分かりませんが、あんなにホクホクした赤飯は後にも先にもあの職人さん宅の赤飯しか知りません。今でも母と「あの赤飯、美味しかったね~」と思い出話をすることがあります。「でも、しいたけだらけの食卓は、きつかったな~」と私が笑いながら言うと、今はベットに横たわった母がすかさず言い放つのです。
「子どもに教育をつけるために、やっていたんだよ」
―― う! 胸にチクリ。
四人もの子ども達の教育費を工面するのは大変だったに違いない……。それなりに教育をつけてもらったのに、ことごとく一般路線から脱線していった四姉弟の胸に迫る、母の凄みの効いた一言。これが、しいたけの話をすると必ず飛び出すのですから、それだけ深く記憶に焼きついている日々だったのでしょう。
こんな昭和の親世代の凄みある日々を記録とともに記憶に刻みたい——。母の記憶は私が繋いでいこうと思います。よろしかったら、今年もお付き合いください。
介護メモ1:「長期記憶と短期記憶」
認知機能が低下していくと、5分前の記憶すらあやふやになります。そんな直近(最近)の記憶を「短期記憶」といいます。その反面、昔話はしっかりできることが多いです。そんな昔の記憶を「長期記憶」といいます。
介護をしていると短期記憶のあやふやさにコミュニケーションが取りづらくなります。病人相手に苛立ってはいけないと思っても、毎日のことだと「仏の顔も三度まで……」になってしまいがちです。でも苛立った結果、どちらも嫌な気分になるのは確定しているので、そんな時は、発想の転換で昔話を聞いてあげることにしています。その昔話をこちらが広げてあげると、柔らかい時間に変換できたりします。そんな風に親の長期記憶を引っ張り出して、ときどき自分の原風景を旅しています。