<やまなし介護劇場>
「母、危篤」の連絡を受け、東京から故郷山梨へ飛んで帰って早10年。50代独身の著者が愛する母を介護しながら生活する日々を明るくリアルに綴ります。
60年に一度の甲辰(きのえたつ)年を迎えて
2024年(令和6年)は、60干支では甲辰(きのえたつ)年。60年前の甲辰年は東京オリンピックの開催とともに高度経済成長期。120年前の甲辰年は日露戦争開戦。180年前はというと諸外国から開国を迫られた年……。
どうやら、甲辰年には時代が「新章」に突入する象徴的出来事が多いようです。そんな年の元旦に、能登半島で大地震が起こりました。
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」という名言がありますが、大災害から始まった甲辰年は、この国の新章をどこへ向かわせることになるのでしょうか。そんな想いを馳せるとともに、被災地の一日も早い復興を心より願っております。 そして、私にとって元旦は、わが父の月命日でもありました。
父の祥月命日は4年前の4月1日。エイプリルフールの突然の訃報。あまりに急なことで驚く親族の様子とは裏腹に、父の死に顔はとても安らかな笑顔でした。晩年は認知症を患って要介護認定を受けていましたが、倒れた母の介護を私たち(子どもたち)と共に悪戦苦闘した父。今回はそんな父の話をさせてください。
ガキ親父のような、やんちゃな父
まず、父の性格を一言で表現すると『ささらほうさら』。
これは山梨あたりの方言で、「しっちゃかめっちゃか」とか「行き当たりばったりのダメダメ」という意味です(笑)。父はどこかお坊ちゃん気質というか、天真爛漫な子どもがそのまま大人になったような人で、「ご機嫌に晩酌するために生きている」と言っても過言ではないほどでした。
祖父から受け継いだ農林業を営んでいた父は、高度経済成長期に仕事が激減すると、「4人の子どもたちを路頭に迷わせてはいけない」と農業から食堂経営へと舵を切ったのですが、店を切り盛りしたのはもっぱら母。父はお客さんのホスト役として(笑)、店に(遊びに)来る父の友だちと連日のように楽しそうに飲んでいました。店が忙しい時でも知り合いが来ると仕事そっちのけ。優先されるのは、友達や高校野球のテレビ観戦などでした。
父は何かに感化されやすいところもありました。私が子どもの頃、テレビで『彗星のごとく現れた天才少年・少女』みたいな人気特番があったのを覚えている人はいらっしゃるでしょうか? うちの父はその番組を見て、自分の子どもも天才少女だと信じたかったのか、私を突如スイミングクラブに通わせたのです。幼い頃から水泳が得意で4泳法をマスターしていた私は、選手育成クラスにあっという間に昇進し、父はかなり盛り上がりました。しかし体が小さかったこともあって、その後の成長は一般的……。娘が『彗星のごとく……』のようなトップスイマーにはなれないとわかると、父は呆気ないほどあっさりと、再び飲み会を優先するようになりました。大好きな飲み会を控えてまで、娘の成長を辛抱強く見守る根性などなかったのでしょう。
そうして放り出された父の夢の後始末を担うのは、いつも母でした。
お見舞いもドライブ気分な父
母が倒れた後、再び東京へ戻って舞台公演を終えて帰郷した私は、母を見舞いに毎日病院へと出向きました。病院は県外にあり、車で40分ほどかかる越境見舞い。遠くまで毎日見舞いに行くのはなかなか大変でした。
それでも父は、店の手伝いもそこそこに毎日母の見舞いに行っていました。昼下がりになると「母さんとこ行かざぁ(行こうよ~)」とソワソワし始める父。それは一見、愛情深い夫の姿に映りそうですが、実際のところ、父は楽しみなドライブへと出掛ける大きな子どものようでした。
病院で母がリハビリをする様子をひとしきり見学して、帰り道はスーパーに寄り道。「閉店間際は刺身が半額~♪ 刺身とワンカップで飲みたいなあ」などと言いながら晩酌の買い物をし、母不在の食堂に戻り晩酌をする……そんな日々を送っていました。
その当時、母の片腕となって店を切り盛りしていた長男と妹は、仕事を手伝うわけでもない父を見ながら、母の作業も受け継いで結構苦労していました。
「何もしなくていい!俺を見ろ!」
そんなわけで、わが家の子供たちには、父の気まぐれに振り回された思い出がいっぱいです(笑)。
たとえば妹は、受験勉強の最中、父が連日カラオケの練習をするもんだから「こっちは勉強してるんだから、ちょっと控えてよ」と懇願したものの、「俺もカラオケの勉強してるんだ!」と開き直られた無双エピソードを持っております。それ故なのか、父亡き今も「酒宴で楽しむ父を自分が迎えに行く……」という夢をときどき見るそうです(笑)。しかも夢の中の妹は、しぶしぶながらも必ず迎えに行く……。それには、こんな理由があるそうです。
妹が一時、人生の迷子になって心閉ざして引きこもっていたとき、周りのどんな励ましも響かなかったのに、父の言葉だけが響いたから。その時に父に力強くなんと言われたかというと……。
「何もしなくていい! 何にもしなくても誰かがやってくれるんだ! 俺を見ろ!」
そう言われて目からウロコよろしく、心からカサブタが剝がれ落ちたような気分になったそうです。もし私がその場にいたら、「いや、もっと何かしようよ父さん!」と突っ込んでいたかもしれませんが、「夢の中でも父を必ず迎えに行く」のは、心を軽くしてもらった妹なりの恩返しなのかもしれません。
ときどき、映画『男はつらいよシリーズ』がテレビ放映されると、周囲を巻き込んで騒動を起こす天真爛漫で憎みきれない寅さんに、どこか父を重ねてしまう自分がいます。父だけでなく、昭和にはそういう気質の大人が結構いて、周りは「ああいう大人にはなりたくない」とか「ああいう人も大人やってるんだから、大丈夫かも」と思ったりしたものでした(よね?)。ちなみに、父の口癖は「ちょい一服しらざぁ(ちょっと休憩しようよ~)」でした。そう、一服(休憩)と飲み会が大好きだった父の口癖が、私のペンネーム・入月一服の由来です。
時としてご機嫌に「何もしなくていい!」と豪放磊落(ごうほうらいらく)に生きぬく時があってもいい……。皆さまにとって、60年ぶりの甲辰年が、人生の新章となるべく時間となりますように。