半分消えた虎のタトゥー
バーテンダー・トーク

【カリフォルニアの隠れ家バー便り】
世界中からチャンスを求めて移住者がやってくる米カリフォルニア。人種の坩堝の中で生きる様々な人たちが、ふらりと訪れる小さなバーで働く日本人バーテンダーが、カウンター越しに耳にしたリアルなアメリカをつぶやきます。

左腕の大きな傷の理由

今日のお客様

 I T関係の仕事をしているブライアンさん(仮名)。メガネが似合うイケメンで年齢は30代前半。左腕に大きな傷があるが、黒い半袖のTシャツを着用。傷を隠そうとせず、終始にこやかな表情で楽しそうに飲んでいる。

 左手の前腕(手首から肘)に約15 cmほどの長さで腕をほぼグルッと一周しているような大きな傷がある——。できるだけ見ないようにと思っても無視できないほどの大きな傷が気になっていた私に、「気にしなくていいよ」と声をかけてくれたブライアンさん。私のような反応には慣れている様子で、「よかったら触ってみる?」なんて笑いながら、その傷ができた経緯を話してくれました。

 ブライアンさん曰く、左腕に傷があるのは、「ここにあった皮膚が身体の別の部分に生まれ変わったから」で、その別の部分とは「プライベートな箇所」。そう、彼は女性の身体から男性の身体へ性転換の途中だったのです。  

 彼が受けた手術のことをざっくりまとめると、まず執刀医が血管や神経の状態を検査してドナーサイト(移植組織を採取する身体の領域)を決定。彼の場合はそれが左腕だったので、左腕から皮膚、脂肪、神経、血管などを必要なだけ切り取って、延長した尿道や神経の周りにぐるぐるっと二重に巻く。そして、海苔巻きのように巻かれたそれを正しい場所に取り付ける——とのこと。皮膚を二重に巻いて、それなりの太さになる分量が切り取られたのですから、彼の左前腕が少し細くなっていた理由がそれで理解できました。

ジェンダーを変える手術の準備は慎重に

 ずいぶん前から手術することは決めていたものの、医師の選択や保険会社とのやりとりなど準備には時間がかかったそうです。

 特に時間がかかるのはドナーサイトとなった左前腕の皮膚の脱毛。尿道と神経に巻かれる一周目の部分にあたる部分は内側に入るので、手術のずいぶん前から脱毛を開始し、ほぼ終わった頃に執刀医がチェックして手術に至るそうです。

 執刀医との最初のアポイントからここまで、待ち時間を含めてほぼ2年かかったとか。私には傷は左腕しか見えませんでしたが、右太腿もドナーサイトで左腕と同じくらい大きな傷があるそうです。

虎のタトゥーはどうなるの?

 ブライアンさんの左肘の少し下、前腕の上部には虎のタトゥーがあります。でも、その虎はお腹から尻尾までしかなく、それ以外は傷。つまり虎の頭からお腹のあたりまでは性転換手術のために切り取られたわけです。

 「ハハ、なかなかユニークでいいでしょ?」と、笑うブライアンさん。ということは、虎がガオーと吠えているタトゥーが入った皮膚は別の勇ましいモノに生まれ変わったのか?と想像していると、「残念ながら、虎の頭の部分は海苔巻きの一周目に入ったんだよ」とのこと。だからタトゥーで見える部分は虎の肩あたりだけだそう。

 「えー、執刀医の先生、巻き方を考えてあげても良かったのでは?」と思いましたが、きっと皮膚内の神経や血管などの方向とかの関係で、そうしてあげたくてもできない理由があったのでしょう。

 ブライアンさんは「手術から完全に回復したら何かいいデザインを考えてタトゥーを入れなおす」と言っていました。「トラが箱の中に頭を突っ込んでいる図」とか、「ちょっと大きめの輪をくぐっている図」とか、なにか良いアイデアを募集中だそうです。

いくつもの手術を重ねて

 現在、ブライアンさんはリカバリーと左手のリハビリに専念中なので、お酒も実は久しぶりに飲んだそう。だから、その日は量も強さもほどほどでした。

 彼の場合、すでに女性的な部分の摘出手術は終わっているので、次は現在の海苔巻状態を「それらしい形に整える」手術、そのあとに実際にそれを機能させる手術(インプラント)が続きます。手術は一度に行わず、毎回充分に回復を待ってから行うのでとても時間がかかる大プロジェクト。最初の手術がいつだったのかは聞きませんでしたが、まだこれから先、1年以上はかかると言っていました。

ごく普通の日常を静かに過したい

 アメリカではトランスジェンダーの4人に1人が、実際に手術に踏み切るとか。経済的理由で手術ができない人もいるし、社会的な理由でカミングアウトもできない方もたくさんいるそうです。ブライアンさんも実際にカミングアウトしてから性転換手術に踏み切るまでは悩んだ時期もあったそうですが、決断してからの行動は早かったと。彼の場合は家族の支えがあり、会社の健康保険で大部分が補償されたので経済的にもとても恵まれた状況だったようです。

 性転換やそれ以前の話はあまり語らない人が多い中、ブライアンさんはあえて隠すこともなく、大声で宣伝することもなく、その場の雰囲気で訊かれたら答えているそうです。

 男性から女性になったスポーツ選手のことや、囚人の性転換手術を受ける権利、あるいは学校の制服や共用トイレ問題など、世間のトランスジェンダーに関する話題はつきませんが、ブライアンさんはそれを自分の問題とは捉えず、なるべく気にしないようにしているそうです。

 「家族でごく普通の日常を静かに過す」というのが彼の目指す幸せ。女性として過ごしていた時の話をしないのは、「ただ、したくないだけ。現在と未来の話をするのはOKだけど、以前の僕のことは忘れて欲しいから」と話していました。生きにくいこともたくさんあると思いますが、世間のポリシーには一喜一憂せず、自身の生活に集中している感じが素敵でした。

 でも、完全にトランジッションが終わったら、きっともう二度とお目にかかることはないような気がします。私は過去を知る存在だから……。

今月のカクテル:モスコミュール

 

 スパイシーなジンジャービアが決め手のモスコミュール。絶対にジンジャエールとは間違えないでくださいね。銅製のマグカップとたくさんの氷でキリッと冷やしていただくので、そのスッキリした味わいは暑い夏にぴったり。でも、ジンジャービアの辛味は秋から冬にも似合うんですよ。ウォッカ(ちなみに英語ではヴァッカと発音します)は強いお酒ですから体を温めてくれます。ちょっと甘くしたい人はお好みでシンプルシロップを少し足してみて下さい。

おすすめの記事