非常時に持ち出すべきものは?
こんにちは、板東汰美です。昨年から家に引き篭もる生活が続いているので、生活の中の無駄に気づくことが増えました。そして、無駄を省く大切さにも気づき、無理をしていた自分にも気づきました。
物質的なことに対する断捨離も大切だと思います。私はアパート暮らしですが、今年に入って建物の非常ベルが鳴って、夜に4回も屋外退去を余儀なくされたことがありました。消防署の職員が誤作動かどうかの安全確認を終了するまでの間、極寒の中で雨に打たれながら考えたことは、「もし、これが本当の火事だったら、私は何を持ち出して生活をやり直すんだろう」と、いうことでした。
通常、私のバックの中には銀行のカードや運転免許証、家の鍵、そして大切な書類を保存したUSBスティックが入っているので、それさえ持って出れば金銭的にはすぐ困ることはないと思います。ただ、「今どきUSBはないな、クラウドにいれておかないと」とか、「何を着て避難するのがベストか」とか「バッグの他に何を持ち出すか」などと考えるうちに、「本当に失えないものは、あるのだろうか」とも考えるようになりました。お気に入りのものは、いくつもあります。でも、非常時に持ち出すには限界がありますよね。
「本当に失えないものは何か」について、しばらく考えた私の結論は、「そんなにない」でした。
実際に災害に直面していないので、あれもこれもと心配になり、不安だけが募るものです。でも大丈夫、何とかなる。よく考えてみたら、私、離婚したとき、当時住んでいた家から、自分の車に積めるだけの荷物しか持ちだせなかったんですよね。それを思い出すと、非常時に持ち出せるものに限界があっても、意外に何とかなるものです。今年に入ってから4回もあった「強制屋外退去騒動」は、そのことに気づく良い機会でした。
コップの水は「半分ある」か「半分しかない」か
非常ベルの連続誤作動によって、「心持ち次第」でまったく同じ状況でも見方が変わることに気付かされた私ですが、それで思い出した話があります。
社会人一年生の頃、私は電話帳出版社に勤めていました。毎日の主な仕事はデータ入力。広告を仕上げるために必要な情報を準備する仕事はとても単調なものでした。でも慣れてくると時間との勝負で、20、50、100……ファイルをいくつこなせるかという挑戦を楽しんでいました。でも、同僚のひとりは「今日は20もファイルがある」と、毎日積まれるファイルを見てはため息。しかも、入力しては全部消去、入力しては全部消去という意味不明な作業を一日中していたことをよく自慢していました。
たまに自分の持ち場とは異なるフロアの作業に就くことがありました。そこでは部屋いっぱいに散乱した校正や契約後のファイルを引き出しに整理する作業をするのですが、その会社では広範囲で地域ごと別々の電話帳を配布していたので、その量は膨大。見た瞬間は気が遠くなりかけましたが、これも挑戦だと思って短時間で終わらせる方法を工夫しているうちに、数時間で片付けられるようになりました。この経験は私の後の人生に大きく役立っていますが、そのときも同僚の中には、お給料をもらっているのに、ほとんど動かずに時間を潰している人がいました。
職場という場所には、いろいろな思いを持って働く人がいるんだなと思います。「出世したい」、「自分のネットワークを構築したい」、「毎月の給料をもらえればいい」、「社会と繋がりたい」など目的は様々でしょうが、与えられた状況をコップの中の水の量に例えたら、それを「まだ半分ある」とポジティブに受け取るか、「半分しかない」とネガティブにとるかは、それこそ「心持ち次第」。非常時のその後の生活を決める心持ちともかぶる気がします。
「今日は誰を幸せにしましたか?」
車に乗るだけの荷物と共にひとりで人生を再出発させた私ですから、今の自分があるのは、これまで支えてくれた多くの人たちのおかげだと痛感しています。みなさんは普段から、支えてくれる人たちのことを意識していますか?
先日、友人からいい話を聞いて、ちょっと衝撃を受けました。その友人が幼少の頃から、彼のお母さんは毎晩、兄弟二人に寝る前に聞く質問があったそうです。その質問とは、「What did you give today?」(あなたは今日、何を与えたの?)。当時は意味が分からずに、彼は毎晩テキトーに答えていたそうですが、今になってお母さんはすごいことを教えてくれていたんだなあと実感している、と話していました。
「私は誰に何を与えてきたのだろう?」。この連載でも、これまでいろんな苦労話などを書いてきましたが、さて、私は一体、何を与えてきたのか。私の場合、笑顔すら誰にもあげられていなかった時期もありましたから……。
今はどうかな、貢献できているかな。そう考えはじめたら、とても深い意味があるように感じます。率直に言うと、私は何もしていないんじゃないかな。この「与える」は金銭的な意味ではないでしょうが、金銭的にも、心にもたっぷりな余裕がないし、昨年からコロナ禍の外出規制が続いていて人に気を遣うような機会がないし、困っている(かもしれない)人を助けたり、気遣い方がわからない……など、いろんなことを理由にあげながら毎日を過ごしている気がしてなりません。
でも、「一体、何をすればいいのかしら」と考え始めたら、くよくよしていたことが小さなことに感じられるような感覚に包まれたのは不思議です。自分以外に目を向けることで、自分の悩みが小さく思えることもあるんだなぁと驚きました。
前回も書きましたが、私が今すぐできることがあるとすれば、「笑顔でいること」かな。それによって人とのコミュニケーションが円滑になれば、誰かを幸せにできる機会に自然とつながるかもしれません。どこかの怪しい勧誘のように「あなたに幸せをあげます」なんてことは口がさけても言いませんが(笑)、「今日は誰を幸せにしたかな?」という問いかけは、昨年からの不安が続く毎日において心にとどめる言葉のひとつになりました。みんながそういう気持ちになれば、優しい世の中に近づけるかもしれないですよね。