50歳を超えてからの単身移住
沖縄県那覇市の中心地から車で東へ約30分、美しい海を望む中城湾に面した与那原町は、450年余の歴史を誇る「与那原大綱曳」が今も続く町。
相羽としえさんが愛知県からこの与那原町に単身で移住したのは約6年前のこと。人口約2万人の町の「地域おこし協力隊」として、日々町の文化や情報の発信を続けながら、誰もが暮らしやすい町づくりを目指して走り続け、2年前には同町の町議会議員に立候補。沖縄に親戚や同級生がひとりもいないナイチャー(本土の人)でありながら見事当選し、同町初の移住者女性議員になりました。町議会議員として、そして「まちづくりアドバイザー」として、精力的に地元への貢献や地域活性化に取り組む相羽さんにお話を伺いました。
なぜ、移住を決意したのか?
—ご出身は愛知県。名古屋では東海ラジオのアナウンサー、同社退職後はスポーツ記者という輝かしいキャリアをお持ちですが、その仕事を辞めてまで沖縄に移住したのはなぜですか?
沖縄が大好きだから、ですね。初めて飛行機に乗って旅行した先が沖縄で、すぐにダイビングの免許を取得したくらい沖縄の海に惹かれたのが最初でした。ラジオ局勤務の頃はスポーツ担当だったので、プロ野球のキャンプ取材で毎年沖縄に出張していましたし、スポーツ紙の契約記者としても取材でよく訪れていたんです。毎回、来沖する度に「帰りたくないなぁ」と思っていました(笑)。
―「好き」という想いだけで移住を決意されたのですか?
ずっと沖縄が好きだったところに、人生の転機も重なったんです。契約していた新聞社の経費削減が進み、人員がどんどん減らされているのを見て、「このまま続けられないかも知れない」と思っていた矢先、2017年の沖縄出張中に「地域おこし協力隊員」の女性と偶然出会ったんですよ。その方から「地方自治体が隊員募集を出すことがある」と教えて頂き、それから毎日、行政のサイトをチェックしていたら与那原町から募集が出たんです。しかも募集内容は「文章が書けて写真が撮れて、町の情報発信をしてくれる人」(笑)。すぐに応募して即採用され、沖縄に仕事が見つかって移住が実現したんです。
―なんだかすごい流れですね(笑)。とはいえ地方への移住は人間関係の壁があって難しいなどという話も聞きます。単身で、しかも50歳を超えてからの地方移住に不安はありませんでしたか?
もちろん、ありましたよ〜(笑)。でも沖縄に住みたい気持ちの方が大きかった。やはり不安もあったので、本土からの移住者の方に「一番、困ったことは何ですか?」と聞いたんですよ。そうしたら、「カビ」って(笑)。それなら自分で防御できることだったので、住めるわって思いました。だから決意なんてものではなくて、勢いです。勢い(笑)。
地域に馴染まなきゃ居場所なんて作れない
ー移住後、すぐに仕事場や地域に受け入れてもらえたのですか?
私の場合、仕事が決まっての移住でしたし、それまでの自分のキャリアを活かせる仕事でしたが、それでも初日から「実績を上げないとここにはいられませんよ」と言われました(苦笑)。公務員の仕事は民間とは全く違うので、まずはそこから覚えないといけなくて、その上、当時の地域おこし協力隊の手取りは月13万円(涙)。毎日の食費は500円以内に抑え、自分の預貯金を崩しながら、とにかく仕事で結果を出さなければと思って頑張りました。「期待されている100倍の結果を出してみせようじゃないの!」という反骨心でしたね(笑)。
任期は3年だったので、1年目は地域に馴染むことを目標にして、与那原町内外で行われる行事に顔を出しました。本土に比べて沖縄は行事がものすごく多いので、毎週末のように何かが行われています。町内の飲食店の取材は夜10時から夜中2時までなんてことも頻繁にありましたが、翌朝は8時半に出勤して「なんでもやります」と涼しい顔で実行することを繰り返しました。
地域の方々に顔を覚えてもらうことが一番大事だと思っていたので、常にカメラを手に持っていました。「いつもカメラを持って写真を撮っている女の人」と覚えてもらえたらいいなと思って。本当に忙しかったけれど、初めて見ること、聞くこと、知ることが多くて毎日ワクワクしていましたね。
―そうやって地域に馴染む努力を地道に重ねたのですね。
沖縄移住に必要なことは、地域の文化をどれだけ尊重できるか、地域の皆さんとどれだけ仲良くなれるか、馴染めるかだと思います。馴染んでから初めて、「こうした方がもっとよくなるのでは?」という提案を少しずつすると、相手も受け入れてくれるようになりますが、いきなり意見を言ってもうまく伝わりません。これまで生きてきた自分の物差しだけを使ってコミュニケーションを取ろうとしても、使っている物差しが異なるので噛み合わない。相手の話をよく聞いて、どうすれば同じ物差しを使って会話ができるかを考えて行動するしかないと思います。それは自分ひとりの力だけで出来る事ではないので、自分を助けてくださる先輩や友人や近所の方も必要ですが、そういう方が必ず現れてくれるのも沖縄だとも思います。
―地域おこし協力隊の3年の任期を終え、今は町議会議員。沖縄の選挙は家族や門中(親族)、同級生による支援がないと難しいと言われる中、単身移住者の女性が無所属で立候補するには相当、勇気がいったのでは?
もちろんですよ(苦笑)。与那原町の歴史や文化継承を推進してきた議員さんが勇退するので、私にその後を引き継いで欲しいと言われたことがきっかけでした。光栄なお話ですが、よそ者が古くから栄える町の文化継承をすることに恐縮しました。
でも、この町に昔から続く「与那原大綱曳」をもっと多くの人に知ってもらうには、政治力も必要です。この大綱曳に惹かれてたくさん勉強して、2019年「ふるさとイベント大賞」に応募して内閣総理大臣賞も受賞しましたが、それでも全国区での知名度はまだまだ。「与那原大綱曳」はもちろん、沖縄三大綱引きを世界中に人に知ってもらうためには、私がビビっている場合ではないという思いから(笑)、立候補を決意しました。
私の場合、沖縄には家族も親戚もいないのですが、協力隊員の時から町中を毎日カメラを持って走り回っていたので、住民の方々に顔を知ってもらえていたことや、後押ししてくださった人々に恵まれたので当選できたのだと思います。私をこの町に受け入れてくださった地域の皆さんには感謝しかないので、皆さんの想いを必ず形にして返したいですね。
歴史ある「与那原大綱曳」を知ってもらいたい
―その「与那原大綱曳まつり」、今年の開催日は8月19日〜20日。まもなくですね。
はい、8月19日が東(オス)西(メス)の大綱を締め上げて、2本で5トン90メートルの大綱をつくり上げる日で、8月20日が与那原大綱曳の本番です。今年の準備はすでに始まっていて、町では大綱曳に関する行事が毎日のように続いています。
与那原大綱曳の特徴は、誰もが「つくる」「かつぐ」「ひく」ができること。なので町民だけでなく、どなたでも大綱曳に参加できるんですよ。本番の綱曳はもちろん、準備の行事にも参加いただけます。
―歴史のある行事に誰でも参加できるとは素敵ですね。
大綱は毎年ゼロからつくり上げますが、85本ほどの綱を編み上げるために、毎週日曜、3週間にわたって各区で作るんです。そうして大綱曳の前日に、東(オス)西(メス)2本の大綱に仕上げます。ですから、参加いただける機会はたくさんあります。
大綱曳の当日は、国道を封鎖して、旗頭、前舞いや金鼓隊に続き、琉球の衣装を着た支度(したく)が乗る大綱を担いで歩く道ジュネー(行進)を行いますが、どなたでも大綱を担ぐことができます。東西、少なくとも200人ずつ必要なので是非大勢の方々に参加してほしいですね(詳細リンクは文末に記載)。
―今後、挑戦したいことは何ですか?
沖縄の三大綱引き(与那原・那覇・糸満)はどこにも負けない文化のひとつで、私のような移住者からすると圧倒されるほど感動しますが、沖縄の方々は自分たちの文化のすごさに気づいていないように見えることがあります。この素晴らしい文化や歴史を日本中、世界中の方たちに知ってもらうために動きたいと思っています。
これまで、いろんな人にたくさん助けてもらって、ここまで生きてきて人生の折り返し地点を過ぎたので、今度は助けてくださった人たちに私がお返しする番です。少しでも役に立つことがあるなら、私がやらせてもらいますよ!という気持ちですね。
相羽としえさんプロフィール
1965年愛知県生まれ。金城学院大学卒業後、三井住友海上火災保険に就職も4年で退社。深夜放送に憧れて1993年に東海ラジオ・アナウンス課に転職し、主にスポーツ番組や野球中継に携わる。2002年、フリーランスに転身。三重テレビの情報番組に出演しながらスポーツ新聞社の契約記者としてプロ野球記事を中心に寄稿。2005年からは故村田兆治さん提唱の「離島甲子園」にも携わった。2017年、地域おこし協力隊として沖縄県与那原町に移住。3年間にわたって与那原町の情報発信をしながら、2019年にAIBAPLANを起業。移住4年後の2021年に与那原町議会議員に初当選し、現在に至る。座右の銘は「とりあえずやる。行動しないと始まらない」。
与那原大綱曳資料館:https://ty-gakushin.jpn.org/tsunahiki/index.php
与那原町ホームページ:www.town.yonabaru.okinawa.jp
笑顔の花を咲かせる会・相羽としえ facebook.com/profile.php?id=100064102000636
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